嵐を好きだった話と、茶の間になった話、そして今。

 

青春を捧げるものとの出会い

 嵐と最初に出会ったのは小学生の時、彼らの知名度を広げるきっかけとなった「花より男子」だった。当時道明寺派か花沢類派か、はたまた美作西門派かで盛り上がっている中どうも道明寺が好きになれなかった。シンプルにカッコつけているのが当時の私には受け付けられなかったんだと思う。

ところが一体何が起きたのか、「花より男子2」で一途に牧野つくしを思う道明寺が大好きになった。単純な女である。(キートン山田の人格) 道明寺を通して松本潤を知り、嵐を知り私は後に嵐のファンを辞めるまで彼を好きでい続けた。

 

廊下で歌ったattack it!

 中学生になると、クラスに3人は必ず嵐のファンがいた。なんと私のクラスにはざっと7人はいたと思う。(今の子達は何になるのかしらキンプリなのかしら)その子達とはよく話すようになったし「VS嵐見た?」「昨日の嵐ちゃん見た?」「Mステ見た?」ああだったこうだったそんな話で毎日盛り上がったり、まだギリギリアイドル雑誌に載っていたので他グループ担の子からポスターや切り抜きを貰ってファイリングしていた。ベッドの横の壁に貼り付けて眺めてから眠りについていた。当時は許された。多分。

 

家の冷蔵庫はHITACHIにしたし、auの携帯カタログは毎回持って帰っていた。私のキッズケータイの次のガラケーはSH005だった。

 

 

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当時松潤(私はずっとそう呼んでいました)はピンクをカタログで持っていたけれど、どう考えても私の好みでもなく、キャラでもなく死ぬ程お詫びして(?)リーダーが持っていたチョコミントの色にした。母親と大喧嘩して逆パカ(死語)するまで2年間はこれを使っていた気がする。

 

その年の「僕の見ている風景」のアルバムは私が初めてお小遣いで買ったCDだった。コンサートの当落は電話のガイドアナウンス若しくはメールで、授業中に掛けまくっていた記憶がある。(よい子は真似しないでね!)  そしてメールについてる顔文字が不愉快すぎて携帯を投げたくなった記憶もある。

 

当落発表の日の校舎は殺伐としていて、当選した子の歓喜の声を横目に悲しみ、悔しがる子が圧倒的に多かった。ちなみに私の自名義は最後まで戦闘能力0でした。

 

そんな私は次の年初めて生の嵐を目にすることになる。

 

本物の嵐を目の前にした時人間は黙ります

2011年Beautiful Worldも落選した。聴きたかったmorning light。 そして2012年、アラフェスなるものが開催される事となり勿論応募するわけだが私の名義は本当に弱い。何度も目にした落選メールだった。SH005を投げた(n度目)

 

が、一緒に行く予定の子の名義は強かった。””””当選””””の2文字に踊り狂ったし泣いた。その日が楽しみで楽しみで毎日頑張れた。授業が終わった瞬間2人で電車に乗り国立競技場でのグッズのプレ販売に並ぶと横の列や少し前、少し後ろに同じ制服の人が何人もいた。そして死ぬ程暑かった気がする。ペンライトのヘラみたいな形に驚いた気もする。

 

9月の下旬、会場に入ると沢山の人が既に席に着いていて団扇を取り出し楽しそうに話していた。私達は奇跡にもアリーナ席で「目の前来るじゃん!どうしよう!」と中学生のテンションでキャッキャしていたのを覚えている。照明が落ちると一斉に上がる歓声。映像に釘付けになっている内に沢山の風船が空に舞い上がり一際大きくなる悲鳴と歓声に辺りを見渡すとメンバーが登場。

 

未知の空間だった。見たこともないような大勢の老若男女がペンライトを持ち、オレンジのタオルを首に下げ、団扇を掲げて5人が歌う姿に歓喜する。DVDで観ていたお決まりの挨拶が聴けた時は「これだー!!」と嬉しくなった。

 

初めてファンサービスを貰ったのもアラフェスだった。(悲しいことに曲は全く覚えていないのだけれど)、目の前の道をリーダーが歩いて来て慌てて私は”潤”と描かれた団扇を裏返し”ピースして”を表に出した。一緒に行った友達は大野担で”智”を掲げたことで自然と”智ピースして”になったからか、こちらに視線を漂わせた彼はこちらを見ながらダブルピースをして通り過ぎて行った。呆然としていたら周囲の優しいお姉さま達が「今の絶対そうだよ!おめでとう!」と声を掛けてくれた。

 

次のコンサートは3ヶ月後のpopcorn てっきりwelcome to our partyから始まると思っていたらup to youのイントロが流れて全力の「そっちかーーーーーーーい」ツッコミをしたような。

これまたトロッコが通る道のすぐ横の席で、喜んだのも束の間「これは爆速で通過するから楽しめるのは香りだけのやつや」と虚無になりながらコンサートを楽しんでピンクのペンライトと団扇を振っていると、君がいるから (これはしっかり曲を覚えている)でトロッコの乗った松潤が鈍行でやって来るではないか。「こっちかーーーーーーーーい」そして私はその時人生で初めて経験した。本当に麗しい人を目の前にすると声が出なくなる。目の前をトロッコがやって来て、彼は淵に寄り掛かり客席を見おろし手を振っていた。ただぼーっと団扇を握ったまま見上げるとこちら側にも手を振っているところだった。

 

眼福。

 

御尊顔を拝んだ。

 

 

多分コンサートに行った方大半が抱いたであろう感想ではあるが「王子様だ」と年甲斐も無く(いうても中3)私の中で枯れ果てていた乙女を呼び起こしてくれた瞬間だった。今はもう1ミリもないです。大地は枯れ果て、砂漠と化しています。

 

コンサートが終わって、退場のアナウンスが流れた瞬間次の日がレポート提出日なことを思い出して虚無になった。(虚無なりがち)

 

 

 嵐の”お客様”ではなくなった瞬間

ひみつの嵐ちゃんが終了した2013年。少しずつ自分の中で心境が変化して行くのを感じた。

シンプルに「嵐のファンでいることに疲れ始めた」のだ。

彼らの人気は留まる事を知らず1週間のほぼメンバーの誰かは必ずテレビに出演していたしドラマや映画、雑誌、沢山の媒体で彼らを目にしていた。比例して嵐のファンは確実に増え続けた。母体数が多ければ多いほど色々な種類の人間が混在する。当時、メンバーの1人だけが好きで他の4人を否定する”オンリー”や、メンバーを馬鹿にしたり否定したりしながらもそれが愛だと主張する”貶し愛”などを顕著に目にするようになり私は本来同じ物が好きで仲良くなれる筈の嵐ファンを嫌悪するようになった。

それでも彼らに罪はないし、彼らの番組や歌っている姿は好きだったので応援していたけれど

「ああ、もうダメだ」と感じたのは嵐が15周年を控えて思い出の場所であるハワイでコンサートをやると発表してからだった。私の当時、コンサートは出演する側だけでなく観客がいて初めて成立するもの という考えを持っていた。それは今でも変わらないけれど、嵐サイドが用意したプランは安くても20万円弱、モノによっては50万円。幅広い年齢に愛されているとはいえ今までに行った会場にいたファンの殆どは若い女性だった。「それでもこの人達はファンが行くという自信があるんだな」と感じた。そしてある雑誌のインタビューで翔くんが”周りに理解して貰えなくてもいいけど今ハワイでコンサートをやることに意味がある”(ニュアンス)みたいなことを言っていて(どの雑誌だったか正しくどんな文章だったかしっかり覚えてないけれど誰か覚えていたら教えてください)その瞬間私は嵐のファンでいる事を辞めようと思った。周囲から嵐のファンが減っていたのも背中を押す要因の一つになった。

 

彼らは何も悪くない。ただ私が、彼らのお客様じゃなくなった。それだけのことだった。ファンは対象に何かを求められる立場に無いし基本的に文句を言える立場ではない。彼らの作品にお金を払い、エネルギーを貰い日々をより楽しく過ごす。それだけの関係性に過ぎない。

ファンのお陰で〜というのは彼らが自発的に思うことでありこちらから強制することではない。

 

そうして私はかれこれ5年間続けた嵐のファンを卒業した。

 

2019年1月27日

ファンを辞めても別に仇になったわけではないので、音楽番組に出演していたらなんだかんだ観ていたし、レギュラー番組も観られる日は観てゲラゲラ笑っていた。

その日はちょうど大学のテスト前で勉強とレポートに追われながらパソコンと格闘していて、息抜きに夕方テレビを観ていたらニュース速報が流れた。あの特殊な音に「はいはいまた政治家何かやらかしたね」と画面を見ると

 

人気アイドルグループ嵐、来年で活動休止

 

ちょっともうその後のことはよく覚えてない。多分同じく元嵐ファンの友人達にLINEを送った気がする。夕飯の準備をしながら、私は耐えきれなくなって声を上げて泣いた。成人にもなって弟にドン引きされながらも、キッチンでハリセンボン春菜の如く泣いた。母親に「あんた本当に嵐のこと大好きだったもんね」と言われて更に泣いた。悲しいのか寂しいのか辛いのか今となってはよく分からないけど泣かずにはいられなかった。

 

昔の切り抜きのファイルや雑誌、アルバムを引っ張り出して眺めながらまた、夜通し泣いた。

 

彼らのリミットが残すところあと1年となったところで世界は病によって急変した。

私自身も始まったばかりの仕事が休業になりほぼほぼ2ヶ月自宅に籠ることになったし彼らも北京でやる予定だったコンサートが出来なくなった。そんな中instagramyoutubeで彼らの姿を観られるようになったわけだが、時代の波に乗った(にしてはまあ遅いくらいだけれども)だけではなく人々に少しでも笑いやエネルギー、安らぎを与える為でもあったんだろうなと考えるとつくづく彼らは誰かの為に自分達の影響力や能力を使う事を惜しまない人達だな。と再認識した。 まさかジャニーズがコンサート映像をyoutubeで無料配信するとは思わなかったし。

 

そして11月に入ると嵐の番組の最終回に向けた編成になっていき、音楽番組でも”休止前最後のパフォーマンス”の言葉を沢山耳にした。

 

VS嵐嵐にしやがれ、が立て続けに先日最終回を迎えて、残すところ紅白歌合戦とThis is  嵐だけになった今、自分にとっての”嵐”ってなんだったんだろうと考えてしまう。

 

 

嵐を好きになったこと

 嵐を好きになって私は沢山の人と出会った。中学生の頃Twitterを通じて仲良くなった元嵐ファンの友人数人とは未だに繋がっている。ある人は結婚して出産し、私は生まれたばかりの赤ちゃんに会いに行った。ある人は年に1回はなんだかんだで会って食事する。

中学生1年生のクラスメイトで未だに仲が良い子は当時嵐が好きだったから仲良くなった。もう10年以上の付き合いになる。一緒にカラオケに行くとどうしてもPIKA☆☆NCHI DOUBLEを歌うし、Hip pop boogieはコンサートverで歌う。

 

初めてコンサートというものに行ったのも嵐だった。動くステージに豪華なセット、アルバムのコンセプトに沿った映像、セットリスト。非日常的な空間。

 

中には嵐好きだった頃のことをほとんど覚えておらず、今は全く違うグループを応援している子がいたり、逆に嵐を今でも好きでいる子もいて。

 

その中で私は、嵐を好きだった頃の自分や好きだった頃過ごした時間、歌った曲、出会った人を忘れることは一生無いと思う。嵐が好きだったから得られた財産が多くある。

イントロが流れれば何の曲なのか大体分かる。超スーパーミラクルイントロドン大会があったら出たい。

 

どのライブでどんなMCを話したのかも何となくは大体覚えている。最近盛り上がったのは

「相葉ちゃんは本当に素敵に歳を重ねてるよね」

「多分あれ良い恋してるね」

相葉雅紀良い恋してる説だね」

「それ風景だね。じゅんのすけ良い恋してる説だね」

*1

やばい!懐かしい!とスタバのテラス席でゲラゲラ笑った。

 

中学生、高校生と無邪気に「かっこいい!」「好き!」とキャッキャ出来た時代に嵐を好きで良かった。私の青春は間違いなく体育祭と嵐が並ぶ。

 

嵐が嵐としての歩みを止める明日、友人と彼らの最後の姿を見届ける。捨てずにいたpopcornのピンクのペンライトを片手に。

 

いつか5人が戻ってきても、例え戻ってこなくても”嵐”が”嵐”であった21年間共にその時代を生きられたことを嬉しく思いながら私はこれからも彼らの音楽を聴く。

 

制服で校舎内を歩きながらattack it!を大合唱したことや、毎日I want somebodyを10回聴いていたこと、予約していたコンサートDVDが届くフラゲ日は急いで家に帰ってamazonの袋をビリビリに破いて帰宅早々テレビにかじりついていたこと(キャーキャー叫びながら観ていて母親に大層迷惑がられた)

 

挙げたらキリがないけど沢山の思い出を頭に浮かべながら今日はお気に入りのコンサートDVDを観て明日を迎えることにしよう。

 

 

 

ありがとう嵐。お疲れ様嵐。またいつか。

 

 

 

P.S 改めて聴くLove so sweetは本当に良い曲です。

*1:ARASHI 10-11 TOUR "scene"〜君と僕の見ている風景〜STADIUM参照